先日ある生徒から「なぜ古文を勉強しなくてはならないのか?将来使いますか?」という質問がありました。確かに将来はあまり使うことはないでしょうし、知らなくても生活をしていくことに支障はほとんどありませんね。ではなぜ勉強する必要があるのでしょうか?
そんなときふと以前から疑問に思っていた事柄を調べてみました。それは松尾芭蕉の亡くなる2つ前に作られた俳句です。
「 秋深き となりは何を する人ぞ」
この最初の言葉をずっと「秋深し」だと認識していました。しかし「秋深き」が正しいことがわかりました。そんなとき、なぜ「し」ではなくて「き」なのだと疑問に思っていたわけです。
そこで思いつくのが、古文単語の語尾活用です。「し」は終止形、「き」は連体形です。
未然形 / 連用形 / 終止形 / 連体形 / 已然形 / 命令形
く・から く・かり し き・かる けれ かれ
この活用を覚えておられるでしょうか?この活用なんですね。
そうなると、どのように意味合いがちがってくるでしょうか?
『し』の終止形のほうだと・・・
秋が深まってまいりました。みんな忙しい時期ですね~。
ニュースのアナウンサーが原稿を読むかのように、日々一般のニュースを伝える状況で、つまりは客観的なニュアンスが強くなります。
それに対して、連体形のほうだと、次に何か名詞や体言、つまりは何かがあるんだけど省略されているニュアンスになります。したがって、
『き』の連体形のほうだと・・・
秋深まってきた今日この頃。となりの人は忙しそうに何をしているのかなぁ。
といったニュアンスになります。何が大きく違うかというと、その情景の中に自分が、つまりは芭蕉自身が入っている主観的に詠まれている俳句になります。
そうなんですね。周りの日々一般の内容を伝えようとしているのではなくて、自分の今おかれている状況を伝えようとした俳句なのです。
たった一文字の違いですが、そこから広がる風景は大きく異なってきます。
さらに、そこには芭蕉の心が反映されているのですが、それは後半にしましょう。