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【8】 考えることをしない大学生・・・誕生編

日本の大学の場合、入り口は狭いが、出口は広くて簡単に卒業できるといったイメージがあるかもしれません。今回はその入り口が広くなっていることをお伝えしたいと思います。

 その原因は少子化による生徒数確保の手法に問題があるからです。大学入試と聞くとどのようなイメージをお持ちでしょうか?センター試験の上に二次試験といった感じでたくさんの試験が待っているのが普通でしょう。

 ところが、最近は大きく変わってきています。もちろん前述は正攻法で、ほとんど多くの方々がそのコースで大学に入学します。しかし、最近はAO入試や推薦入試といったものがあります。

 AO入試ってなんだと思われるかもしれませんが、ほぼ推薦入試と同じくくりで話をしていっても現状のAO入試は特徴が少ないので、それでいいと思います。

 現在受験生の数に対して、大学の定員数が大幅に余裕がある状況になってきている状況なので、大学側、特に私立大学にしてみれば、生徒数が確保できなければ、経営ができなくなるので、生徒数は絶対的に必要なわけですから、ある意味生徒の取り合いがそこで生じてきます。早稲田や慶応といった有名な大学は別としても、新規参入の大学は本当に個性や、ほかの大学と違うところ、いわば‘売り’がなければ、生徒数を確保するのは難しくなるでしょう。

 そこで、禁断の一手を使わざるをえなくなります。それが『青田買い』です。意味は、まだ収穫期に到達していない田を、前もって買い取ってしまうという意味です。つまり、一般試験の時期、1月2月になるとほかの大学に魅力が負けてしまうので、それを少しでも早く確保、つまりは『内定』をだしてしまうわけです。その手段が推薦・AO試験となるわけです。

 ここで注目したいのは、いわば内定をいつ出すかということです。通常のイメージなら少し早い11月とかをイメージするかもしれません。とはいえ、それもその時期に同じように内定を出そうとする大学がいる限りは、意味がないので、より早くだして、生徒を確保しようとします。

 その時期はいつでしょうか。驚くなかれ、早いところは5月に出してしまうところがあります。つまりは、今の時期で来年春の卒業生の中に、すでに大学に合格している生徒がいるということです。

 試験内容はどのようなものでしょうか。そのようなところは、たいてい面接で合否がきまります。とはいえ、ほとんど不合格者はいません。ある意味、推薦AOの入学願書をだした時点で、合格は決まっているわけです。

 これはとても恐ろしい状況です。なぜそういえるでしょうか。そのいわば内定をもらった生徒は、残りの高校生活をどのように過ごすでしょうか?

 たとえば夏休み。通常の生徒は、塾の夏期講習や学校の補習などで毎日勉強に明け暮れます。その後、入試に向けての追い込みもしていくことになります。この半年間の現役生の勉強量は半端ないもので、学力がぐんと上がる時期です。同じように勉強すると思いますか?

 全部の生徒がそうとはいいませんが、夏休みはバイト三昧だったり、自動車の免許を取りに行ったりすることで忙しくしていたりするのではないでしょうか?いわば、受験勉強から逃れるための手段といえるかもしれません。

 そして大学に入った瞬間、一般入試で入ってきた生徒との学力差に唖然とすることになります。いや、まだそれに気が付けばいいですが、周りがすべて推薦AOで入った生徒だったら、そこでも危機感を感じることなくすごしてしまいます。

 そこでもまた、大学側は親切心を示してきます。そのままの学力で大学を卒業させてしまってはまずいので、大学の講義の中で、本来入試で学んでいるはずの内容を補習するわけです。絶対にやってはいけない親切です。

 さらに恐ろしいのは、そのようにして入った生徒、果たして高校入試や中学入試などでハードな試験を今まで受けてきているでしょうか。下手をすると、すべて同じように推薦で登ってきて、さほど勉強することなくきていたりします。

 このようにして、あまり勉強することなく『考えることをしない大学生』が誕生するのです。少子化と大学側の経営問題がこのような大学生を実現させてしまっています。

 さて、次回はさほど勉強をしないできてしまった『考えることをしない大学生』の大学生活と就職活動に焦点をあててみたいと思います。

【7】 センター試験の数学

 前回とその前で数学は過程が大事で、それを評価すべきだという話をしてきました。そのためマークシートには不向きであることは決定的な問題です。とはいえ、センター試験から数学を外すわけにはいかないですし、センター試験の受験生の数を考えると、当然採点するのはマークシートでなければ処理できないことは確かでしょう。ですから、現在の形になっているといえます。

 つまりセンター試験では一応過程を考えるために、穴埋めのような数式の展開になるわけです。二次関数なら、まずは頂点の座標を求めましょう。次に判別式から、解の数について考察しましょうといった感じです。

 穴埋めだから簡単だろう?って思われるかもしれません。ところが、むしろそれが難しいのです。なぜでしょうか。

 数学は最初に問題をみて、自分なりに流れを思い浮かべて数式を変形していくわけですが、そこの重要なポイントは『自分なりに』というところです。つまり、自分ならこうやって解答を進めるといった流れです。

 ところが、センターは『自分なり』を許さず、出題者側のやり方で解くように矯正されてしまうわけです。したがって、その数式の展開や話の流れがわからないと、何を目的としているのかわからず、なかなか波に乗れずに答えがわからないということが多々あります。

 いわば、‘人の褌で相撲をとる’っといった感じが抜けきれず、解いていてもそれでいいのか常に違和感を感じながら、私自身も解いている事があります。

 マークシートで数学を解くというのは、出題者の解き方を推理していくまた違った数学になっているわけです。まあそれが数学といっていいのかどうかはわかりませんが・・・

 そんな変な数学だからこそ、姑息な手段で解答を求めようとする輩がいます。それが先日もお伝えした三角関数の場合ルートの中は、2か3とかいったことを教えるテキストです。これは明らかに数学ではなくなっています。数学を使った推理小説みたいな感じで、私としては、そのやり方は絶対に数学ではないと断言します。

 いずれにしてもマークシートの数学は、とても難しくなる傾向があることをわすれてはなりません。それよりも、本当の数学、数学の本質を理解して勉強していってほしいと思います。

 さて、次回は、「考えなくなった大学生たち」についてお伝えします。

【6】 マークシートだから簡単?

 よく私立などを受験する生徒がいう言葉に

『マークシートなのでそこまで勉強しなくても大丈夫だと思います。』

という生徒がいます。いやはやなんとも・・・

 そもそもマークシートで解答を求める目的は、採点を効率よく短時間に行うために取り入れられています。いかにも効率重視の世の中が考えた採点方法です。それによって、数学などの本質的な実力を図ることは、犠牲にされてしまったわけです。

 マークシートだと、答えを選択するので楽だと考えがちです。答えは必ず選択肢の中にある・・・確かに、その答えは半分は正解だといえます。それこそ国語や英語、社会であれば、そういえるかもしれません。ただし数学はそうはいかないわけです。

 それでも数学も、答えが穴埋めだたったり、分数だったりすることがヒントになるとかいわれるでしょうか?たしかに、ある程度はヒントになりますが、それって本当の数学なのでしょうか?

 たとえば、三角関数の問題で、解答の形のなかでルートの中に入る数字を求める場合、たいていは「2」か「3」だとか、答えの空欄の並びから答えを絞り込んだりすることを教えるテキストがあります。

 そんな解答を教えるテキストからは、絶対に学んではいけません。それは明らかに、数学ではなくなっているからです。

 さらにマークシートの恐ろしさを一つ上げると、計算が最後の最後までできていないと正解できないということです。

 先ほど考えた安易に数学を考えている生徒は、数学を苦手としているので、計算力が伴っていません。したがって、計算ミスを連発します。99%あっていたとしても、最後の「移行」や「約分」などでミスをすると、「全くできていない」と判断されてしまうのです。

 たとえば、計算してきて答えが「2の3乗」ということがわかっても、ここで2の3乗は、「8」なのに、誤って2×3と考えて「6」にマークしたりします。どんなにできているとはいっても、マークシートは情け容赦なく「できていない」と判断します。完全完ぺきな解答でないと得点できません。

 つまりマークシートは、結果でしか判断しないのです。過程を大事にする数学において、マークシートはかなり厄介な解答方法なのです。ほんと恐ろしく感じるのですが、それでも『マークシートだから簡単だ』とまだ思われますか?

 

 「それでもセンター試験で採用されているじゃないか。あれはどうしてなのか」

 たしかにセンター試験の数学はマークシートですね。それについては次回お伝えしたいと思います。

【5】 数学は結果よりも・・・

 今回は、数学の教科特性についてお伝えします。

 もしかしたら数学の問題は、四角四面で答えが一つでかなりタイトなイメージがあるでしょうか?

 全くそれは当てはまらないとお伝えしたいと思います。確かに小学校の計算の結果などは1つになるのはありますが、大学入試問題などにおいて、数学の解答はかなり柔軟性に富んでいるといえます。というのも、最終的な答えは1つかもしれませんが、そこにたどり着く過程はいろいろあるという事です。

 私の数学総合の授業では、生徒が課題をやってきてプレゼンしてもらうのですが、毎年同じ課題を出題しても、模範解答とは違うが、答えもあっていて、違ったアプローチからの解答を導いてくる生徒がいます。ほんとエクセレントです!数学の解答は模範解答だけではありませんし、それ以上によくできている解答もあるのです。

 ちょっと横道にそれますが、それに比べると、国語や英語の要約や長文問題などのほうがタイトのように感じます。自分はそう思っても、作者はどう思っているのかが大事ですし、要点となるところを抜き出せという問題も、いろいろな可能性があるなかで、もっとも適当なものを選択しなくてはならないといった点で、意外とほかの答えを容認していないように感じます。

 それはさておき、以前、私の学んだ数学の先生がこんなことを言っていました。

 「解答用紙が白紙でも、そこに何度も計算をした結果であったり、時には消しゴムで消す際に、破けてしまったりした結果の解答だったりしたら、確かに答えは、できていないがその努力を評価して白紙でも点数をつけたい

 そうなんですよね。数学は、その結果ではなくて、その過程を重要視する学問なのです。

 とはいえ残念なのはそのような数学は、現代社会に不便であったり、敬遠される状況にあるということです。

 世の中は、とかく結果がすべてで、過程などどうでもよい状況があります。逆に言えば、過程はどうでも結果が出ていれば問題ないといった、中身のない結果を歓迎する傾向さえあります。『早い!安い!うまい!』なんて言葉が昔ありましたが、それが重要な社会では、なかなか数学を理解するのはより難しくなっているように思います。その一つの例が、以前お伝えした‘とにかく早ければいい先取り学習’となります。

 芸術作品同様、よい結果を残すためには、ある程度の時間が必要だとおもいますし、その過程をきちんと評価してあげたいと私は思っています。時間をかけたからこそ、自信をもって伝えられるようになるように思います。結果がでなくてもそこまでの努力を評価してあげたいと思います。

 もしすべてを結果だけで判断するのであれば、だれも努力をしなくなるように思うのは私だけでしょうか・・・

 次回は、そんな数学をマークシートで採点することの問題点をお伝えしたいと思います。

【4】 数学の一斉授業による錯覚

 今回は数学の授業スタイルについて取り上げてみたいと思います。

 先日某予備校の数学の授業を聞いたところ、数十年前の授業のやり方となんら変わりがないということに驚きました。勉強といえば、

 『先生が前にいて講義の形で解説解答をしてくれる様子

を思い浮かべることでしょう。確かにそのとおりといえます。ただそれが、数学の学力を上げるかというと疑問が残ります。

 たとえば、数学の本があったとして、それを読んだからといって、そこに書かれている公式や定理を利用することができるようになるでしょうか

 大学のカリキュラムなどを見ると、理系のほうでは、「講義」だけでなく「演習」といった授業があります。つまりは、ただ聞いただけでは、身につかないことをわかっていることを物語っているのではないでしょうか?

 さてそこで、論題にもどり某予備校の授業スタイルと考えると、テキストには、去年出題された難関大学の問題が、1ページに一問ずつ載せされていて、その下は余白となっています。つまりは、その下に、解答を書いていくようにということになります。

 ところで、その解答だれが書くのでしょうか

 ‘生徒が書くに決まっているでしょう’

 確かにそれは間違いではありません。ただ、先生が解答解説してくれる模範解答を書き込んでいくのです。そこには、ほとんど思考力を働かせることはありません。長年、学校などの一斉授業で受け身の態勢で勉強してきた生徒にとっては、当たり前のことなのです。

 強いて言えば、どれだけきれいに板書をノートに写すかといったところで、違いが出てくることはあるかもしれませんが、ここでの問題点は、そこではありません。一斉授業を受け身で勉強しているうちは、どんなに頑張っても数学の学力は伸びないという事です。

 先ほどの数学の本の話に戻ると、その本を読んでいるところどころに出てくる公式を、実際に計算して証明をしていくことができるなら、格段に理解力はもちろんのこと、その数式の背景にあることまでも理解できるようになります。

 つまりは、数学などの教科は、自分から積極的に手を動かして、計算などをしなければ、力はつかないということです。

 某予備校の授業は、ある意味パフォーマンス的なところがあります。人気が出なければ、カットされる厳しい状況ですから、どれだけ美しく、かっこよく、魅力的に解答を作り、解説することができるかが大事でしょう。それによって生徒が集まるわけですから、職業としてそれは仕方ないことなのかもしれません。

 しかし、そのようなかっこいい解答を教えてもらっても、実際に自分でできるかどうかは別物です。きれいな、自分には思いもつかない解答を理解することで、その授業を受けていれば、自分も同じように数学ができるようになるといった錯覚に陥ります。『理解できる』ことと『できるようになる』ことの間には、かなりの隔たりがあるのです。

 むしろ泥臭くても、自分の力で、自分の思いつく解法で解いたほうが、はるかに力が付きます。たとえ、答えに到達しなくても、そこまで試行錯誤した過程は、絶対無駄になりません。

 次回はそのような数学という教科の教科特性についてお話していきたいと思います。

【3】 先取り学習の弊害『一夜漬け知識』

 前回中高一貫校のカリキュラムの問題点をお伝えしましたが、それに付随する問題として先取り教育の弊害についてお話します。

 先取り学習の目的は、公立では中高6年間でやることを5年で学習して、最終学年は復習や総合問題を中心に大学受験対策をするというのが目的です。

 確かに、数学Ⅲの内容や理科の内容をみても、最終学年1年で終わるかどうか難しいほどの内容が含まれていて、それに加えて受験対策はさらに難しいといったところが通常カリキュラムです。

 ですから、最後の一年に余裕があるのはかなりのアドバンテージです。

 そのカリキュラムについていけるかどうかが問題になるという話を前回したわけですが、ついていけている生徒にも問題を抱える場合があります。それは、忘れるのが早いという問題です。

 なぜ、そのようになるのかと考えると、とにかく早く進めなくてはならないカリキュラムについていかなくてはなりません。ですので、暗記などが得意な生徒になると、答えを暗記したりして、その場をしのぐといった勉強になります。

 とはいえ、数学などの教科は、学んだあとにその知識の練習をして、いわば知識の熟成時間が必要になります。公式を学んでも、その使い方の練習をしなければ使い物になりません。

 ところが、先へ進めなければならないので、そんな時間はありません。ですから要領のよい生徒になると、とにかくその場をしのぐ勉強をするようになり、いわゆる『一夜漬け』のような知識で先へ進めていくわけです。

 この知識の問題点は、すぐに忘れてしまうということです。その結果、確かに学校の定期試験は、その場の知識なので点数が取れるのですが、実力試験になるとできないということになります。

 『急いで学んだものは、すぐに忘れてしまう』といった傾向が顕著に表れます。

 そのような場合、きちんと生徒の学習速度に合わせたカリキュラムが必要になります。何でもかんでも早ければいいというわけではありません。生徒の学力に合わせて進めていくと、その結果、先取りができるというのが本来の先取り学習ではないでしょうか。実際、それができる生徒も多くいます。

 それを可能にするのがSSシステムになるというわけです。

 次回は、数学の学習における一斉授業とSS授業の違いについてお伝えします。

【2】 私立中高一貫校の問題点

 今回は私立中高一貫校の問題の部分についてお伝えしたいと思います。

 一時期、私立中学入試が流行した時期がありました。まだ続いているといるといわれる方もおられるかもしれません。まず、ではなぜ私立中学を目指すのでしょうか?

 学習環境が整っているとか高校受験がないので大学入試を意識した6年カリキュラムなどがあげられることでしょう。特に後者のほうは、「高校受験のために塾に行かせる必要がないので経済的」 「一年前倒しして、先取り勉強するので、最終学年は一年間まるまる入試対策の勉強ができる。」 といったことが宣伝となっています。果たして実情はどうでしょう。

 残念ながら、上記の条件を満たし、実際に良い成績を維持できる生徒はほんの一握りといえるでしょう。某私立中高一貫校では、最終学年では、東大などの2次の入試問題中心に練習したり、テキストもほとんどが問題集で、演習中心の授業となっています。そこでどのような問題が生じてくるでしょうか。

 確かに、その授業についていける生徒は、かなり上位の大学を受験し合格できるでしょう。しかし、それができるのはほんの一握りです。そもそも、通常は6年かける所を5年で終わらせる内容なのですが、それが基礎だけでなく応用問題も含めて先取りしていきますから、基礎力がなかったり、勉強の習慣や勉強法が確立していない生徒にとっては、かなりの苦痛になります。

 かといって、学校側もそのようについてこれない生徒をほおっておくわけにはいかないので、夏休みなどの長期休暇中に補習をするということになります。

とはいえ、カリキュラムもついてこられる生徒がメインになっており、将来の学校の宣伝のためにも、これらの生徒を重視する傾向があり、すべてそこで取り戻せる時間はありません。

 したがって授業についていけない生徒は結局塾やほかの方法でさらに補習を自分でしていかなくてはならないわけです。ここで、先ほどの宣伝文句は完全に崩壊するわけです。

 もちろんすべての生徒がそうだとはいいません。そのカリキュラムについていける生徒もいるので、その生徒にとっては素晴らしいカリキュラムになることでしょう。

 ただ、先取りして勉強できるので安心とか、高校受験がないので安心だという理由だけで中高一貫校を選ぶと大きな落とし穴になりかねないことをお忘れなく。

 そこで、私たちの塾では、生徒中心の生徒のためのカリキュラムを個別に作成します。その結果、先取りできる生徒は先取りになりますし、そうでなくても、学校の授業をしっかり理解して先へ進めることができます。生徒中心なので、生徒を置いていくような授業ではありません。

 次回は、そのついていける生徒についても弊害があります。それをお伝えしたいと思います。

なぜ勉強しなくてはならないのか・・・後編

 さてなぜ勉強をする必要があるのか後編です。

 前回、芭蕉の句のニュアンスの違いをお伝えしましたが、そこにその時おかれていた芭蕉の状況を重ねていきましょう。

 前述の句は、最後から2つ目の句と紹介したとおり、この句を詠んでから、芭蕉は間もなく亡くなります。この時も、すでに病床にふけっており、句会に句を提出してほしいといわれていたのですが、出席できないので、弟子に持たせて発表した句です。そうなると、この句の背景にどのような芭蕉の心がうかがえるでしょうか。

 このように静かに横になっていると、隣の家の音がやけに大きく聞こえて忙しそうですねぇ。そうか~もう秋も深まり、冬支度に忙しいのかなぁ。正月に向けての準備もあるのかなぁ・・・みんな忙しくしている中で、自分はこのように何もできずに横になっているだけ・・・自分がいなくても、時は流れていくのですね~。

 といった感じでしょうか。自分の死期を感じていたかどうかはわかりませんが、自分が周りから取り残されているように感じていたことでしょう。なんかとても切ない芭蕉の気持ちを感じ取れるでしょうか。

 このようにたった一文字に含められた芭蕉の心を理解することができます。それも古文の活用を知っていたからにほかなりません。数百年前に感じた状況を、現代の私たちが共感できるのはとてもすばらしいことではないでしょうか?

 確かに、これらのことを知らなくても生活には困らないでしょう。実質小学生で学ぶ内容くらいあれば、生活していくことはできるでしょう。

 ただこのように、知識をもっていると人生をより豊かに、楽しく送ることができます。最初に質問してきた生徒も、芭蕉の世界を感じることができたようでした。少しでも勉強すればしただけ、それはよい影響力となります。それは、古文に限らず、ほかの教科の勉強もそうです。

 現在の受験制度では、入試まで時間制限があるので、知識を味わう時間もなく、『勉強』=『嫌なこと・大変なこと』となってしまっているので残念ですが、自分から楽しく進んで勉強できるようになれることを切に願っております。

なぜ勉強しなくてはならないのか・・・前編

 先日ある生徒から「なぜ古文を勉強しなくてはならないのか?将来使いますか?」という質問がありました。確かに将来はあまり使うことはないでしょうし、知らなくても生活をしていくことに支障はほとんどありませんね。ではなぜ勉強する必要があるのでしょうか?

 そんなときふと以前から疑問に思っていた事柄を調べてみました。それは松尾芭蕉の亡くなる2つ前に作られた俳句です。

 「 秋深き となりは何を する人ぞ」

 この最初の言葉をずっと「秋深し」だと認識していました。しかし「秋深き」が正しいことがわかりました。そんなとき、なぜ「」ではなくて「」なのだと疑問に思っていたわけです。

 そこで思いつくのが、古文単語の語尾活用です。「」は終止形、「」は連体形です。

 

 未然形  / 連用形 / 終止形 / 連体形  / 已然形  / 命令形

 く・から    く・かり         ・かる    けれ     かれ

 この活用を覚えておられるでしょうか?この活用なんですね。

 そうなると、どのように意味合いがちがってくるでしょうか?

 『』の終止形のほうだと・・・

   秋が深まってまいりました。みんな忙しい時期ですね~。

 ニュースのアナウンサーが原稿を読むかのように、日々一般のニュースを伝える状況で、つまりは客観的なニュアンスが強くなります。

 

 それに対して、連体形のほうだと、次に何か名詞や体言、つまりは何かがあるんだけど省略されているニュアンスになります。したがって、

 『』の連体形のほうだと・・・

   秋深まってきた今日この頃。となりの人は忙しそうに何をしているのかなぁ。

 といったニュアンスになります。何が大きく違うかというと、その情景の中に自分が、つまりは芭蕉自身が入っている主観的詠まれている俳句になります。

 そうなんですね。周りの日々一般の内容を伝えようとしているのではなくて、自分の今おかれている状況を伝えようとした俳句なのです。

 たった一文字の違いですが、そこから広がる風景は大きく異なってきます。

 さらに、そこには芭蕉の心が反映されているのですが、それは後半にしましょう。

【1】 SSシステムの必要性

 今日からHASHIKENの授業の内容とその目的や必要性についてお伝えしていきたいと思います。

 そもそもSSスタイルが確立していった背景にはどのようなものがあったのでしょうか。それは、受験方式の多様性、生徒の学力のばらつき、学校進度のばらつきなどを考えると、従来の先生が黒板の前で解答解説していく方式では、対応できない状況です。

 にも関わらず、そのスタイルで授業を行っている学校などの授業には、あきらかにがあることがわかります。特に私立の進学校などでは、そのスタイルを崩さないために、なるべく同じ学力の生徒に教えられるように、毎月学力試験を行い、生徒をレベル別に分けて教えるといったところもあります。とはいえ、それでも必ずしも生徒の学力にあった授業とはならないことでしょう。

 そうであれば、逆に生徒主体で生徒のレベルにあった授業を展開したいと考えました。つまりは、生徒一人一人に対応した個別型の授業スタイルです。

 とはいえ、そこにまた問題が生じてきます。すべての生徒を個別で教えることは可能なのか?さらに授業料もかなり高額になってしまうのではなかろうか?ということです。

 その問題を解決したのが、SSシステムです。

 ただここで勘違いしてほしくないのは、よくある個別指導と混同してほしくありません。

 よくある個別指導のスタイルとして、一つは、学校の補習型になっているものがあります。学校の勉強のフォローをしていくことをメインとして、とりあえず生徒のわからないところを答えていく・・・たしかにそれも必要なところかもしれません。

 また別の個別指導のスタイルは、本来一斉授業でやるべきところ、少子化などの影響で、生徒が集まらないので個別指導だとうたっている場合もあります。カリキュラムもテキストも一斉授業のものにも関わらず「生徒に‘より時間をかけて’めんどうをみてあげられます」といったものは、いかがなものでしょう。

 そのような個別指導とは一線を画したものとなっています。次回は、よりその個別指導との違いをお伝えしていきたいと思います。