【5】 数学は結果よりも・・・

 今回は、数学の教科特性についてお伝えします。

 もしかしたら数学の問題は、四角四面で答えが一つでかなりタイトなイメージがあるでしょうか?

 全くそれは当てはまらないとお伝えしたいと思います。確かに小学校の計算の結果などは1つになるのはありますが、大学入試問題などにおいて、数学の解答はかなり柔軟性に富んでいるといえます。というのも、最終的な答えは1つかもしれませんが、そこにたどり着く過程はいろいろあるという事です。

 私の数学総合の授業では、生徒が課題をやってきてプレゼンしてもらうのですが、毎年同じ課題を出題しても、模範解答とは違うが、答えもあっていて、違ったアプローチからの解答を導いてくる生徒がいます。ほんとエクセレントです!数学の解答は模範解答だけではありませんし、それ以上によくできている解答もあるのです。

 ちょっと横道にそれますが、それに比べると、国語や英語の要約や長文問題などのほうがタイトのように感じます。自分はそう思っても、作者はどう思っているのかが大事ですし、要点となるところを抜き出せという問題も、いろいろな可能性があるなかで、もっとも適当なものを選択しなくてはならないといった点で、意外とほかの答えを容認していないように感じます。

 それはさておき、以前、私の学んだ数学の先生がこんなことを言っていました。

 「解答用紙が白紙でも、そこに何度も計算をした結果であったり、時には消しゴムで消す際に、破けてしまったりした結果の解答だったりしたら、確かに答えは、できていないがその努力を評価して白紙でも点数をつけたい

 そうなんですよね。数学は、その結果ではなくて、その過程を重要視する学問なのです。

 とはいえ残念なのはそのような数学は、現代社会に不便であったり、敬遠される状況にあるということです。

 世の中は、とかく結果がすべてで、過程などどうでもよい状況があります。逆に言えば、過程はどうでも結果が出ていれば問題ないといった、中身のない結果を歓迎する傾向さえあります。『早い!安い!うまい!』なんて言葉が昔ありましたが、それが重要な社会では、なかなか数学を理解するのはより難しくなっているように思います。その一つの例が、以前お伝えした‘とにかく早ければいい先取り学習’となります。

 芸術作品同様、よい結果を残すためには、ある程度の時間が必要だとおもいますし、その過程をきちんと評価してあげたいと私は思っています。時間をかけたからこそ、自信をもって伝えられるようになるように思います。結果がでなくてもそこまでの努力を評価してあげたいと思います。

 もしすべてを結果だけで判断するのであれば、だれも努力をしなくなるように思うのは私だけでしょうか・・・

 次回は、そんな数学をマークシートで採点することの問題点をお伝えしたいと思います。

【4】 数学の一斉授業による錯覚

 今回は数学の授業スタイルについて取り上げてみたいと思います。

 先日某予備校の数学の授業を聞いたところ、数十年前の授業のやり方となんら変わりがないということに驚きました。勉強といえば、

 『先生が前にいて講義の形で解説解答をしてくれる様子

を思い浮かべることでしょう。確かにそのとおりといえます。ただそれが、数学の学力を上げるかというと疑問が残ります。

 たとえば、数学の本があったとして、それを読んだからといって、そこに書かれている公式や定理を利用することができるようになるでしょうか

 大学のカリキュラムなどを見ると、理系のほうでは、「講義」だけでなく「演習」といった授業があります。つまりは、ただ聞いただけでは、身につかないことをわかっていることを物語っているのではないでしょうか?

 さてそこで、論題にもどり某予備校の授業スタイルと考えると、テキストには、去年出題された難関大学の問題が、1ページに一問ずつ載せされていて、その下は余白となっています。つまりは、その下に、解答を書いていくようにということになります。

 ところで、その解答だれが書くのでしょうか

 ‘生徒が書くに決まっているでしょう’

 確かにそれは間違いではありません。ただ、先生が解答解説してくれる模範解答を書き込んでいくのです。そこには、ほとんど思考力を働かせることはありません。長年、学校などの一斉授業で受け身の態勢で勉強してきた生徒にとっては、当たり前のことなのです。

 強いて言えば、どれだけきれいに板書をノートに写すかといったところで、違いが出てくることはあるかもしれませんが、ここでの問題点は、そこではありません。一斉授業を受け身で勉強しているうちは、どんなに頑張っても数学の学力は伸びないという事です。

 先ほどの数学の本の話に戻ると、その本を読んでいるところどころに出てくる公式を、実際に計算して証明をしていくことができるなら、格段に理解力はもちろんのこと、その数式の背景にあることまでも理解できるようになります。

 つまりは、数学などの教科は、自分から積極的に手を動かして、計算などをしなければ、力はつかないということです。

 某予備校の授業は、ある意味パフォーマンス的なところがあります。人気が出なければ、カットされる厳しい状況ですから、どれだけ美しく、かっこよく、魅力的に解答を作り、解説することができるかが大事でしょう。それによって生徒が集まるわけですから、職業としてそれは仕方ないことなのかもしれません。

 しかし、そのようなかっこいい解答を教えてもらっても、実際に自分でできるかどうかは別物です。きれいな、自分には思いもつかない解答を理解することで、その授業を受けていれば、自分も同じように数学ができるようになるといった錯覚に陥ります。『理解できる』ことと『できるようになる』ことの間には、かなりの隔たりがあるのです。

 むしろ泥臭くても、自分の力で、自分の思いつく解法で解いたほうが、はるかに力が付きます。たとえ、答えに到達しなくても、そこまで試行錯誤した過程は、絶対無駄になりません。

 次回はそのような数学という教科の教科特性についてお話していきたいと思います。